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その他のお社・ご祭神 Highlights of the precincts

境内見どころHighlights of the precincts

お社一覧マップ 石鳥居 南楼門 舞殿 手水舎 手水舎 藤屋と空也上人ゆかりの井戸 月下氷人石 神輿庫 能舞台 斎館 清々館 御神水 忠盛灯籠 美容水 透塀 神饌所 御祭神御神詠歌碑 万灯籠 神馬舎 絵馬堂 西楼門 「祇園社」灯籠 ふれあいえびす像 大国さまと白うさぎ像 常磐殿 授与所
マップ

石鳥居(いしとりい)
重要文化財

 正保3年(1646)に建立された表参道に位置する明神鳥居になります。
寛文2年(1662)に地震で倒壊しましたが、同6年(1666)に補修再建されました。

南楼門(みなみろうもん)

入母屋造。慶応2年(1866)に焼失し、明治12年(1866)に再建された表参道に位置する正門になります。
祇園祭の神輿渡御や結婚式の際は、こちらの門より出発します。

南楼門(みなみろうもん)

入母屋造。慶応2年(1866)に焼失し、明治12年(1866)に再建された表参道に位置する正門になります。
祇園祭の神輿渡御や結婚式の際は、こちらの門より出発します。

南楼門(みなみろうもん)

入母屋造。慶応2年(1866)に焼失し、明治12年(1866)に再建された表参道に位置する正門になります。
祇園祭の神輿渡御や結婚式の際は、こちらの門より出発します。

舞殿(ぶでん)
重要文化財

慶応2年(1866)に延焼し、明治7年(1874)に再建されたものです。
祇園祭の際に三基の神輿が奉安されるほか、結婚式や奉納舞踊などが行われます。

 花街のお茶屋や付近の料亭などから奉納された多くの提灯は、夜間明かりが灯されると幻想的な雰囲気を醸し出します。

舞殿(ぶでん)
重要文化財

慶応2年(1866)に延焼し、明治7年(1874)に再建されたものです。
祇園祭の際に三基の神輿が奉安されるほか、結婚式や奉納舞踊などが行われます。

 花街のお茶屋や付近の料亭などから奉納された多くの提灯は、夜間明かりが灯されると幻想的な雰囲気を醸し出します。

舞殿(ぶでん)
重要文化財

慶応2年(1866)に延焼し、明治7年(1874)に再建されたものです。
祇園祭の際に三基の神輿が奉安されるほか、結婚式や奉納舞踊などが行われます。

 花街のお茶屋や付近の料亭などから奉納された多くの提灯は、夜間明かりが灯されると幻想的な雰囲気を醸し出します。

手水舎(てみずしゃ)
重要文化財

 明治20年(1887)に南手水舎が、昭和3年(1928)に西手水舎が建造されました。

 神社にお参りする際は、まずは手水舎にて心身を清めてから参拝するのがマナーとなります。

手水舎(てみずしゃ)
重要文化財

 明治20年(1887)に南手水舎が、昭和3年(1928)に西手水舎が建造されました。

 神社にお参りする際は、まずは手水舎にて心身を清めてから参拝するのがマナーとなります。

藤屋と空也上人ゆかりの井戸

 明治初期まで藤屋という茶店があった場所で、向かいの茶屋(現・中村楼)と合わせて二軒茶屋として親しまれて来ました。
延長3年(925)には、醍醐天皇が疱瘡を患われた際に、諸人も病に苦しみ、これを見かねた空也上人はこの井戸の清水を用いたお白湯を施して、諸人は癒されたという云われがあります。
それ以後も参詣者はこのお白湯を呑み、身を清めてから参拝したとされます。

月下氷人石(げっかひょうじんせき)

 江戸末期から明治にかけて、迷子や尋ね人を探す際に、側面の「尋方」「教方」にそれぞれ紙を貼りつけ伝言板の役割をした石です。その名称は双方の仲を執り持つという意味の中国の故事から名付けられております。

月下氷人石(げっかひょうじんせき)

 江戸末期から明治にかけて、迷子や尋ね人を探す際に、側面の「尋方」「教方」にそれぞれ紙を貼りつけ伝言板の役割をした石です。その名称は双方の仲を執り持つという意味の中国の故事から名付けられております。

月下氷人石(げっかひょうじんせき)

 江戸末期から明治にかけて、迷子や尋ね人を探す際に、側面の「尋方」「教方」にそれぞれ紙を貼りつけ伝言板の役割をした石です。その名称は双方の仲を執り持つという意味の中国の故事から名付けられております。

神輿庫(みこしこ)
重要文化財

 昭和3年(1928)に建造されたもので、祇園祭の神輿三基が納められています。
内部外観共に木造風ながら瓦・引戸以外はほぼすべてがコンクリート製となっています。

神輿庫(みこしこ)
重要文化財

 昭和3年(1928)に建造されたもので、祇園祭の神輿三基が納められています。
内部外観共に木造風ながら瓦・引戸以外はほぼすべてがコンクリート製となっています。

能舞台(のうぶたい)

 毎年1月3日には初能奉納やかるた始め式が行われ、新春を華やかに盛り上げます。

 また祇園祭期間には石見神楽の奉納などもこちらで行われます。

能舞台(のうぶたい)

 毎年1月3日には初能奉納やかるた始め式が行われ、新春を華やかに盛り上げます。

 また祇園祭期間には石見神楽の奉納などもこちらで行われます。

能舞台(のうぶたい)

 毎年1月3日には初能奉納やかるた始め式が行われ、新春を華やかに盛り上げます。

 また祇園祭期間には石見神楽の奉納などもこちらで行われます。

斎館(さいかん)

 神事に奉仕する神職が身を清める潔斎を行う場所です。
また神事の際にはこちらで着装を行い、本殿に向かって参進します。

斎館(さいかん)

 神事に奉仕する神職が身を清める潔斎を行う場所です。
また神事の際にはこちらで着装を行い、本殿に向かって参進します。

清々館(せいせいかん)

 八坂神社の献茶施設です。表千家・裏千家による月釜が毎月行われます。

御神水

 本殿真下には龍穴と呼ばれる池があり、境内各所より地下水が湧き出ております。大神様のお力をいただける清らかな水です。

御神水

 本殿真下には龍穴と呼ばれる池があり、境内各所より地下水が湧き出ております。大神様のお力をいただける清らかな水です。

美容水(びようすい)

 美御前社の脇より湧き出る清水で、肌に2・3滴つけることで身も心も美しくなるとされます。

美容水(びようすい)

 美御前社の脇より湧き出る清水で、肌に2・3滴つけることで身も心も美しくなるとされます。

忠盛灯籠(ただもりとうろう)

 白河法皇が祇園女御のもとに赴こうとこの辺りを通った時に、前方に鬼のようなものが見えました。討伐を命じられた平忠盛は鬼の正体を見定めるために生け捕りにしたところ、灯籠に明かりを灯そうとしていた社僧でした。人々は忠盛の思慮深さと勇ましさを称え、この話は平家物語や日本外史にも記されております。

透塀(すいべい)

 明治中期に建造されたものとされ、本殿の東側と神饌所を囲む塀です。檜皮葺の素木造りで、唐草模様の上質な彫刻があしらわれております。

透塀(すいべい)

 明治中期に建造されたものとされ、本殿の東側と神饌所を囲む塀です。檜皮葺の素木造りで、唐草模様の上質な彫刻があしらわれております。

透塀(すいべい)

 明治中期に建造されたものとされ、本殿の東側と神饌所を囲む塀です。檜皮葺の素木造りで、唐草模様の上質な彫刻があしらわれております。

神饌所(しんせんじょ)

 明治26年(1893)に建造されたもので、神事の際にお供えする神饌を調理する場所です。

御祭神御神詠歌碑(ごさいじんごしんえいかひ)

 「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
この和歌は素戔嗚尊が櫛稲田姫命とご結婚の際に詠まれた和歌で、日本の三十一文字の和歌のはじめとされております。
令和元年(2019)に祇園祭創始1150年を記念して、清々講社より奉納されたものです。

御祭神御神詠歌碑(ごさいじんごしんえいかひ)

 「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
この和歌は素戔嗚尊が櫛稲田姫命とご結婚の際に詠まれた和歌で、日本の三十一文字の和歌のはじめとされております。
令和元年(2019)に祇園祭創始1150年を記念して、清々講社より奉納されたものです。

万灯籠(まんとうろう)

 境内約100灯の万灯籠は祇園界隈の店を中心に奉納されたもので、夜間明かりが灯されると幻想的な雰囲気を醸し出します。

万灯籠(まんとうろう)

 境内約100灯の万灯籠は祇園界隈の店を中心に奉納されたもので、夜間明かりが灯されると幻想的な雰囲気を醸し出します。

(撮影場所:北参道)

(撮影場所:北参道)

神馬舎(しんめしゃ)

 江戸時代には境内に神馬舎があり、昭和3年(1928)に現在地に移転建築されました。

 二頭のうち栗毛神馬は寛文8年(1668)に釜之座中から奉納されたものです。

絵馬堂(えまどう)
重要文化財

延享元年(1744)に建造されたものとされ、大正15年に本殿西側より現在地に移築されました。

 山鉾巡行の様子を描いたものや算額【重文】などの大絵馬が掛けられ、京都市内では北野天満宮と並ぶ代表的な絵馬堂とされます。

西楼門(にしろうもん)
重要文化財

切妻造。応仁の乱により焼失した後、明応6年(1497)に再建された境内最古の建造物です。
八坂神社のシンボルとして親しまれています。大正2年(1913)に市電の開通により四条通が拡張された際には、通りの中央に見えるように東に6メートル北に3メートル移動されました。
大正14年(1925)に翼廊が建てられ、現在の姿となりました。

西楼門(にしろうもん)
重要文化財

切妻造。応仁の乱により焼失した後、明応6年(1497)に再建された境内最古の建造物です。
八坂神社のシンボルとして親しまれています。大正2年(1913)に市電の開通により四条通が拡張された際には、通りの中央に見えるように東に6メートル北に3メートル移動されました。
大正14年(1925)に翼廊が建てられ、現在の姿となりました。

西楼門(にしろうもん)
重要文化財

切妻造。応仁の乱により焼失した後、明応6年(1497)に再建された境内最古の建造物です。
八坂神社のシンボルとして親しまれています。大正2年(1913)に市電の開通により四条通が拡張された際には、通りの中央に見えるように東に6メートル北に3メートル移動されました。
大正14年(1925)に翼廊が建てられ、現在の姿となりました。

「祇園社」灯籠

 明治時代の神仏分離令が出されるまで、当社は神仏習合の社寺であり「祇園社」と呼ばれていました。

 その名残を残す数少ない石灯籠です。

ふれあいえびす像

 北向蛭子社の御祭神であります事代主神は「えびっさん」として親しまれており、商売繁昌を祈願する多くの方がお参りされます。

 祈願した後にこの像を触れるとご利益があるとされます。

ふれあいえびす像

 北向蛭子社の御祭神であります事代主神は「えびっさん」として親しまれており、商売繁昌を祈願する多くの方がお参りされます。

 祈願した後にこの像を触れるとご利益があるとされます。

ふれあいえびす像

 北向蛭子社の御祭神であります事代主神は「えびっさん」として親しまれており、商売繁昌を祈願する多くの方がお参りされます。

 祈願した後にこの像を触れるとご利益があるとされます。

大国さまと白うさぎ像

 日本神話「因幡の白兎」で大国主社の御祭神であります大国主神がウサギを助ける場面を模した石像です。

常磐殿(ときわでん)

 光照院門跡の寝殿であった建物で江戸幕府の寄進により再建されたものです。
明治時代には尚德小学校の講堂に、明治後期には三井家の邸宅に、その後の昭和31年(1956)に八坂神社へ移築されました。

常磐殿(ときわでん)

 光照院門跡の寝殿であった建物で江戸幕府の寄進により再建されたものです。
明治時代には尚德小学校の講堂に、明治後期には三井家の邸宅に、その後の昭和31年(1956)に八坂神社へ移築されました。

常磐殿(ときわでん)

 光照院門跡の寝殿であった建物で江戸幕府の寄進により再建されたものです。
明治時代には尚德小学校の講堂に、明治後期には三井家の邸宅に、その後の昭和31年(1956)に八坂神社へ移築されました。

授与所

 神社で授与される御守りはご神霊が遷されたもので、あらゆる災厄から身を護ってくれます。自身に相応しい御守りを選んでお持ちください。

授与所

 神社で授与される御守りはご神霊が遷されたもので、あらゆる災厄から身を護ってくれます。自身に相応しい御守りを選んでお持ちください。

授与所

 神社で授与される御守りはご神霊が遷されたもので、あらゆる災厄から身を護ってくれます。自身に相応しい御守りを選んでお持ちください。

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